覚書

知られていない人や作品を紹介したいです。

前川佐美雄「或る一季節のはなし」『日本歌人』創刊号

 「カメレオン」の前身「短歌作品」を創刊したのは昭和六年一月であつた。この「短歌作品」は最初からケチがついてゐた、といふのは創刊号の編輯を済まさぬうちに私は腸チフスに罹つて帝大病院に入院した。創刊号を早崎君が持つて見えた頃はまだ熱が相当ひどかつたやうに思ふ。二号の編輯は病院のベツドの上でやつだんだが、どうも充分な思惑が実現出来ないで発行日が大分延びてしまひ、これが嫌気のもととなつて六年七年の丸二年間に出た数号はたつた八冊きりだつた。
 創刊当時の同人は私に石川信雄、木俣修、早崎夏衛、松本良三、小笠原文夫、高須茂、神山祐一、小玉朝子、齋藤文、蒲池侃の諸君であつて、当時は歌壇に於ける芸術派と目され、最も精鋭をすぐつたものであつた。今でも色んな人から惜しまれるのだが、「短歌作品」があのままずつと続けてゐたら多分立派な雑誌にもなつてゐたらうし、伝統短歌の革新には又相当活躍出来たらうと思はれてならない。まことに今日私にしても今一歩進歩してゐたに違ひないと思はれる。それが私自身の怠惰からあのやうな有様になつた事は、全く一緒に仕事をして呉れた前記諸君その他会員一同に申訳がない。自惚か知らんが、勃興しつつある。自由律短歌を圧へて行けるのはたつた一つ「短歌作品」よりなかつたのだから。これが私が奈良へ帰住してから、「カメレオン」といふ気取つた名前に変つてしまつた。編輯は田島とう子さんがやり、石川、早崎の両君が後にゐてくれたが、これも四五回ぐらゐ出たか知ら。それも今年の三月「松本良三追悼号」を出したきりたうたう廃刊にしてしまつた。
 こんあぐうたらな休刊雑誌も滅多にないが、お蔭で「前川は雑誌のやれない」ものと相場を定めつけられてしまつたらしい。佐佐木信綱先生でさへ、「あなたは白秋さんや尾山さん式でね」と笑はれたものだつた。然かし又よくまあこんな調子でやつて来られたものだと自分一人感心しない事もない。その上更に感心なのは、このやうな私と行を共にし最後迄居残つて呉れた三十九人の同勢なのだ。早崎や石川は腐れ縁で仕方もないが、他の諸君は気の毒だつた。屹度歌壇革新だなんて叫んでみたい連中ばかりには違ひなかつた。それだのに雑誌が出ずとも文句も言はず、よその雑誌にも行かないでいつでも面白可笑しくやつて来て呉れた。四十七士には足りない小勢だが、こんな嬉しい仲間はさうざらにありはすまい。全く感謝の言葉もないといふ気だ。尤もよそへ逃げ出した者もあるし、いつの間にか、歌から足を洗つた者さへあるが、居残つた諸君が揃つて「日本歌人」に加はり、且つ作歌を中止してゐた人も新に加はつて呉れるのは嬉しい。
 ただ残念なのは松本良三君の夭折だつた。実にいい男であつた。彼の遺したものを見ると今更乍ら素晴らしい天才だつたと嘆かれてならぬ。弱虫で強情で、さうして野性的で気品に充ちてゐた。石川が今遺稿を編輯してゐるから一周忌の秋迄には出版出来よう。ただこんなに早く死ぬのだつたらもつと歌を作らしたかつたが、小説を書くといふから無理に歌をやれとは言へなかつた。小説は一二年もすれば相当なもんだと思つてゐたが、歌の方は既に出来上つてゐたからだつた。それだけに何んとしても残念だ。
 然し嬉しい事は「短歌作品叢書」として小玉朝子さんの歌集「黄薔薇」を出しえた事だ。この歌集は朝子が如何に素質ある詩人かといふ事を一般にひろく知らしめる事に役立つた。楽屋落ちになるから多くは言はぬが一度は読んで見るがよろしい。今日歌壇にこれだけの女流歌人があるかどうかといふ事を直ちに得心するだらう。
 それから面白かつた事は朝日講堂で「夏のヴアラヱテイ」といふお祭をやつて歌壇の人々に一夕たのしく遊んでもらつた事だ。千百五十人はひれる会場へ千五百人もはひつて超満員。土岐さんにもこれには感心して貰へた。この時の講師の一人三宅やす子さんのなくなられたのは残念だつた。まだ私は三宅さんの追悼文は書かないがそのうち何か物語りたい。この日の傑作は何んとしても尾山篤二郎氏の演説だつた。実は西条八十氏に頼んであつたが、・・・(以下続く)