覚書

知られていない人や作品を紹介したいです。

川端康成「同人雑誌の作品『池のほとり』其他」『時事新報』八月三日

 最も特色のあるのは、一戸務氏の「春をおくる人々」(新作家)、衣巻省三氏の「落ちたスプウン」(新作家)、阪本越郎、北園克衛両氏の合作の「ムツシユシヤアレ珈琲店」(新作家)なぞである。(中略)
 衣巻省三北園克衛の二詩人の小説は、一般の小説の読者からは閑却されながらも、常に新鮮な感覚を生かしてゐる。感覚を描くばかりでなしに、文章を組み上げる感覚に面白さがある。しかし今月のものは特にいふほどのことはない。

村野四郎「詩集『足風琴』衣卷省三氏著」『詩法』

 衣卷氏の詩を讀むことは僕にとつて非常に久し振りだ。あの屈托のない詩集『こわれた街』以來のことだ。
彼の詩のお行儀の惡さは昔ながらのものだが、詩が赤いネクタイをつけて、ちよっとはにかんでゐるところも衣卷氏の儀禮なのである。概して『足風琴』は非常に肉體の匂ひがつよく、これに、やや精的なものが蕭洒な洋服を着せてゐるといったところだ。
詩人が詩ばかり書きつゞけてゐるといふことは、當然なことのやうではあるが、詩を書くことにのみ執着することは多くの場合、詩人の健康のためににあまりよろしくないらしい。さうすることは知らない間に詩人を窮屈な背景の中に追ひこんで了ふからだ。これは自家中毒の一種なのだらうか。そして精神がつまらないところで疲勞してゐることがある。『足風琴』の詩にはかういった状態からは離れた、氣樂な自由さはある。あまり詩にこだわらないとこころに衣卷氏の自由な詩作法があるのかも知れない。この中に「詩法」といふ詩があ。《君は手でインキ壺からミユーズをひねくリだす。僕はわが足でそれを奏でる。こは予の詩法に於ける春秋の筆法である。》
前途のやうに彼の詩にはたしかに自在な面白さがあるにはあるが、嚴密にいへば彼の體臭を上品に裝ふウヰツトにしても、それは樂しい洒落に止まって、すばらしい新しさのスリルを僕達に感じさせることは困難である。しかしこの詩集の覘ひ所もそのへんに置かれたのではないだらうか。

伊藤整「文藝レビユー七月號(その他)」『文藝レビユー』p57―58

衣卷省三「パラピンの聖母」
 彼の久し振りの創作である。そしてそれは僕等の期待を裏切らず、がつちりとした構成とインサニテイを取り扱ふ一つの新しい方法とを掲げて現はれた。主人公の芝道夫の言葉の記述を作品の主體としたことは、最近の世界文學の有力な潮流である意識の流れのメトオドと呼應するものである。そして芝道夫が會話のみによつて、完全に描き出されてゐるに對して、江上次郎は外部的な正統な筆によつて克明に殆ど欠點なく描かれてゐるにも拘らず、芝道夫の描寫よりも幾分弱く感ぜられる。だがこれは決して作者の欠點では無い。この作品の中に同居した二つの異るメトオドの異る効果によるのである。作者が芝を獨自によつて描いたのは素材の性質によつたのであらうが確かに新しい試みである。それが正統的な描寫法に對立して、一層強い効果を示してゐる點で、この作品は、今の僕等に相當大きな問題を提出するものと信ずる。

谷崎精二「文藝時評」『早稲田文學』昭和10・11・1

 衣卷省三氏の『黄昏學校』には獨身な女教師の生活が描き出されてゐる。暢達な筆致だが、彼の女の生活の上面を撫でゝゐるだけで、作者の神經は作品から遊離してゐる感じがする。現實への切り込み方が不足である。