覚書

知られていない人や作品を紹介したいです。

襤褸聖母

 聖なる御名が どすぐろい運河の風にふき
ながされてゆく またも かたくなな僕を誘
う 一篇の祈禱会のしらせに すでに こた
え得るものは ひとしおあたたかく やわら
かであつた 曾つて 僕の懺悔の書であつた
 あの切支丹史の灰ばかり

 最后の雪のような 白い悲哀すら 喪われ
てしまつた この港町の運河のほとり いま
 沙漠に肖た空気のなかに 小さく あんな
にちいさく 跪いている うつろな 置きざ
りにされた 老いた影よ かなしいまでに
石炭の粉のつまつた 涸れはてた苦悩の皺よ

 儚い 夕虹の脚をたどりながら 降りてく
る 首のない天使が 殉血にまみれた祈りの
こえで おもむろにかきまわす 運河の澱み
に ほつかり 泛き上つてくるもの

〔ああ 母さん 石炭のもえがらを積む 傷
ついた手押車に 僕をのせてください〕

 ためらわず 撰ぶかなたは徒刑場 押され
てゆく 押されてゆく 遅々とした 幸福の
時間が緊めつけてゆく 嗚咽にがくりふりむ
けば 濡れた睫毛のふちに眠りつづけている
 はるかな暁闇のなか 湖の底に澄む

 裁きの水を湛えた眼差しが 僕の脊髓をつ
らぬきとおす

〔わたしには まだ あのこの二本の脚の画
を描く しごとが遺されているのです〕

人見勇詩集『襤褸聖母』より