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覚書

知られていない人や作品を紹介したいです。

けしかけられた男(一)第一章

 机の前に座ってゐるうちに、いつしか窓の外は緑に満ちあふれた。昨日までは枝の間から向ふの丘の道や、白いバスや、家々などがはりきり見えたのに、今日はそのところどころしか眺めることが出来ない。何も書けないし、何も読めないので、私は此処から外の景色ばかりのぞんでゐるより仕方がなかった。時々トランプの一人遊びをやりながら、ある暗示とか、感動とか、美妙な綾のやうなものを心に把へることがあって、いきなりトランプを放り出しミヘンを手にして書き誌るさうとすると、其等は瞬く間に消えてしまふ味気ない、ごく淡い苦味が残されるだけであった。艶々しいトランプの一枚一枚の肌ざはりにも、感情の消長や起伏がのって又愉しいものである。時には捜しあぐんでゐた語彙や、物の題材を見出すこともあるにはあっても、この室内で、こんなことに耽り、窓外をぼんやり眺めてゐたりすることは哀しむべき心の状態にちがひない。私は此様に尊い時間を白っぽい水のやうに棄ててゐるのであった。だが余り外出もしないで此処にゐることは、もし悪魔が机上に何物かを持つてきてくれたとき、すぐにも其れを取入れたいからの念願もあるのだらう。私はもう以前にたのまれた、或ひは約束のない原稿をまとめようとしてゐるのだとも言ってみたいのだ。
 今うつつに外を見てゐると、何だか花のやうに香ぐはしいものを私は空想してゐた。私は向ふの家や路や、樹の間からちらちらして通るバスをみてゐるのではなかった。でも私は風が吹いてゐて、緑の葉が銀の葉裏をみそて爽やかにそよいでゐるのを知ってゐた。だが其れとなんのかかはりがあらう。花のやうなものは、憶ひ出でも、恋人の面影でもいづこからかしてくる窈窕たる女の声でも、希望の如きものでもなかった。ただ花のやうに香ぐはしいものが私のごく身近かにあるのである。それは赤い一輪の薔薇の花なのだ。私は思はず言った。
「薔薇が咲いてゐるぞ薔薇が………庭を捜してごらん、茂みの中だよ――」
 庭隅の緑のこんもりした処に風があたると隙間が出来て、その中に曾て植えつけたこともない薔薇が紅の灯をともしてゐる。
 この花が私の心の暗い淀みを照らして何とはなしに浮き立った。水の上から魚の群れたつのをのぞんだ時のやうに心ときめいて、私には書くべき澤山のものがある気がしてならなかった。私がやにはにペンを手にすると、私に書かるべき感情がどっと来襲してきて、溺れる者のやうに苦しみながら、私は忽のうちに沈没して自分を失ってしまった。

この頂上ばかり歩んでゐる詩人は、一層新鮮である為には、次の頂上に来た時○○新らしいペンネームが必要ではないだらうか。北地克巳の次は悪坂友衛、小松理一郎といふ風に。すると彼はすぐ○○(さま)了解して言った。


「翰林」に連載。ジッドの贋金日記の影響あり。当時の意識の流れを受けている。身辺雑記的でもあり、北園克衛や中岡宏夫、妻の原百代などをモデルとした人物が見られる。
北地克巳=北地克巳 長三千子=原百代 上村=中岡宏夫 か。