覚書

知られていない人や作品を紹介したいです。

福田清人「新刊批評 三册の小説」(『翰林』s8・9・1)

 衣卷君の建設する特異な現實の城郭の掘はわれ等の越そえないものがある。君と室を共にする時、たまたま長身の男の扉を排して入来するや「あつ天井が下つた」と驚かせ、一杯の清水を汲まうと吸上ポンプを力をこめておすと、「そんなに力を入れると井戸もろともに吸ひあげるぞ」と忠告する。この夏に入る夕、彼とある喫茶店に坐つてゐた時、たまたま前にゐた数人の人たちの顔を一見した彼は僕の耳に口をよせて囁くことがあつたので、別に漠然と世の常の人達とうち眺めてゐた僕が、改めてそれ等を見直したとき、なるほどそれは一團の怪物團の風貌を示しだすのであつた。彼の觀察は意想外の現實の核心を貫く一句となり一種のコルルホルムとなる。彼は一切平凡灰色の現實に退屈してゐる。さうだ最近彼からもらつた手紙の中に彼は「大森のドブの海で、うちの若いものや子供とヨツトにのつてゐます。あれに乗つてゐて、浪をきつてゐるときだけたのしく、陸へ上ると又物憂いいつもの小生になつてゐます。」と書いてゐる。君は君の生れた海港神戸のやうに明朗さうだ。だが朗らかさうな彼に君は本當は憂鬱だね。寂しいんだね。だから表面そんなに反撥的に朗らかさうに装ふんだいふやうな常識的な感傷的な言葉を言つたなら、酒場の女となりますかと言ふ者を輕蔑するに違ひない。彼はさうした人生に甘える峠はすでに越えてゐる。いまの君の生活態度、従つてそこからにじみでたこの「パラピンの聖女」一聯の作品に、君の平凡な世の身をしばるきづなから、身もがきして、脱けでて、自分の眼から習俗のつみかさなりによどむ曇りを拭いて見直した裏の高雅なEnnuiをつくづく思ふのである。作家にとつてこのEnnuiが世の常の生活意志を葬失したEnnuiと異なることは言ふまでもないことである。君の場合このEnnuiあればこそそれは烈々たる創作意志と變貌して、自らの特異な現實世界「衣卷世界」の創造活動が働きだすのだ。君にまた、思ひはロビンソン・クルウソオの船のやうに漂流して少年の日の過去の彼岸に結びつく作品の多いのもまだ今日のこの蕪雜平凡なトゲトゲしい世間を夢にだに思はず、自らの見るもの思ふもの快く和やかに身にそうてゐた日の追慕に外ならない。いやその日とてしれにふさはしい悩みはあつたとしても、思へば何と甘美な苦澁ぞや。今それについて思ひだす。二三年前のクリスマスの夜、偶然萬平ホテルのホールの餘興場で出会つた事があつた。壇上の奇術師は見物の子供を壇上にあげ、その頭の中や口の中から球を抜きだす奇術を見せ子供を觀衆の中に物色した。無理に壇上にあげられた愛くるしい少年はみれば衣卷君の愛息ではないか。衣卷君は何となく痛々しい表情を浮べて、ああいふ事は子供の心に強い刺激を與へるのでといふやうに語つた。君の心には「鐵の箱の中」に描かれたた甘美な感傷が洗はれて當時の恐怖が思ひ出されたのであらう。僕たちはその恐怖を僕らが奇術師の箱に入れられたやうに君の描寫で知ることができる。例へばこの作品にせよ、又「敷布テント」にせよ、君の時へて到達した追想とユーモラスな筆致で、奇術師の箱からもう出られないかとの思ひも、「敷布テント」に描かれた大震災の恐怖も、快い吐息をもらしながら讀むことができるのだ。君の高雅なEnnuiの沼と、これの變貌による創作活動のハアモニイある限り君は不幸ではない。かくてますます衣卷世界を深めていくに違ひない。