覚書

知られていない人や作品を紹介したいです。

阪本越郎「作家と態度」(『季刊文学』第六冊 昭和八年六月十七日 厚生閣書店)

 今度《パラピンの聖女》といふ小説集を新刊した衣卷省三はこのカンケ燈を潜つた作家であると僕は考へる。彼の中にはダダ的情熱があつて、それを押し殺してゐることがよく分かる。それ故こんなに面白い作家がゐるといふことを知られずにゐたことになる。正しく彼は人々を欺いてゐる。彼のペンは本當は鳩の胸をつきさして、桃色の血でそれを浸してゐる。彼はこの殘忍の快感に蒼ざめながら、そのペンを川に棄てる代りに、原稿紙の枠に中に滴らす。彼の文學のエスプリは非常に生々してゐて殘忍である。殘忍ではあるが洗練されてゐる。それは詩人としてのダンディスム的態度である。彼の感情に嘘のない率直な小説のスタイルは、その底に特に彼らしい色つぽさと凄さを出してゐる。〈パラピンの聖女〉や〈プリマドンナ〉や〈鐵の箱の中〉などに於ける思春期の少年の切ない戀心といふものは、あのはけ口のない苦しい時期を再經驗させる。小説〈パラピンの聖女〉ではバラツクの便所の中で小太りの娘を襲ふ少年の色情は、〈鐵の箱の中〉では《開けろ、開けろ、開けろ、ぶつ毀すぞ、開けろ》と叫びつヾける少年のセキシアル・コンプレックスとなつてゐる。かういふ色情亢進の状態はそれ自身としては胸の惡くなるやうなものであるが、そこに衣巻省三の詩がコンバインされてゐるために客體として塑像のやうな美しさをみせ色情狂的妄想者が生々と描き出されてゐる。小説〈パラピンの聖女〉の中でパラピン製の裸體の《尊いお腹に齒形がついてゐる》のを少女の上に移して少女に《おれの齒形はどれだ! おれの齒形は》と叫ぶ少年はシムボリックサディズムであり、《車屋ヤ御用聞キヤ商人ヤ會社員ハ皆變裝シタ刑事ニ見エテ》何か自分の犯した重大な罪惡のために追跡してゐることを信じてゐる他の少年は被害妄想にかゝつてゐるのである。また小説〈症寔〉にもこの淮度の被害妄想があり、自分の肉體に邪惡な蟲共がゐて自分をさいなむと信ずるヒボコンドリイ性妄想が描かれてゐる。小説〈ポウの館〉にも憂鬱性妄想患者がゐて、彼は迫害性妄想と可成り組織的な誇大妄想に取憑かれて彼の周圍の誰をも狂的に疑つたり、《井の頭公園の墓地に石器時代の遺物がある》と信じて掘出しに行つたりするのである。このやうにこの小説集には精神病學者の研究對象となるやうな變熊心理が巧みに描かれてゐて、それが紛糾したダダ的な今日の雰圍氣と融合してゐる。彼の凄まじく豐かな空想の中に、時代の反動的な色犲を帶びた現代インテリゲンチヤの不安に曇る影が捕へられてゐる。それは〈雨の街〉でハンテイングをかぶつたアパッシュの姿にも、〈狩りの時〉にみられる《アルコールに狩られて狩りの一日を挧る》主人公にも同樣にみとめられる。更に〈敷布テント〉の絏りに、作者はポオル・モオランの小説の一節を思ひ出して《今日は風儀のボルシエビズム、肌膚の共籥主義の時代、その爲に今では非常な美人がなくなつてしまつた》と嘆じてゐる。しかし、〈プリマドンナ〉には、《・・・・・・いやあよ寂しがつたり哀しんだりしちや。きつと空氣のせいよ。夏は暑さのために皮膚を賑やかにして、何かごまかしがあつたのだけれど、秋は本當のものが現はれるんです・・・・・・》といふような言葉のやりとりがあつて、靑春の日の哀歡がバライオリンの音のやうな流れとなつて讀者の心を潤ほしてくれる。それからこの作家のペンは〈どこの町〉といふ小存になると一段と清新の氣に滿ち滿ちてくる。何者にも汚されない一人の處女《飛がすりが白くなる程洗つたのをきた清潔な》田舎娘を主題にした、若い旅人の心持ちを取扱つたもの。衣卷省三の一段の進境を見せたもので都會の女しか書けない作家でないことを示してゐる。これは〈綠蔭をかき分け掌で掬ひ取つたやうな〉短篇である。あのダンデイズムの匂ひの高い作家にこのやうな一面もあるのかと驚かせるもの。旅人の〈私〉が便館に用を足してゐるその少女に儚ない別れをつげるくだりなどは矢張り彼らしいが。茶これは別のことだが、彼が便所といふものを色々に生かして使つてゐることは面白い發見で、彼の冴えた技巧を語るべき一特色といつていゝであらう。とまれ〈どこの町〉はタブロウとして愛すべきものをもつてゐるが、何かこの作家の教潤してゐる深い心理的現實を表してゐるものとしては〈ポウの館〉に若かないであらう。この作は雜誌に分載された時は分載のせいかそんな重量を感じなかつたのであるが、今度讀みなほしてみて確かにこの作家の知性の脊丈を測量するに足る作品であると思つた。