覚書

知られていない人や作品を紹介したいです。

田村泰次郎(目次は泰治郎)「「けしかけられた男」」『翰林』昭和10・7・1

 衣卷君「のけしかけられた男」(ママ)は『翰林』に連載されてゐたとき、にしばしば讀んで、特異な、詩的なエスプリがまるで寶石か何ぞのやうにいたるところに散らばつて、妖しく光つてゐるのが、ひどく眼についた。
 いま纏めて讀んで見て、感じることは寶石がすべて裏側から網の目のやうに血と肉と、それからもう一つ何物か、さういふ生理的な條件とは別の烈しく張りつめたものとでつながつて、その一つ一つが生きた眼となつて燃えてゐる。
 私の眼の前に擴がつてゐるところの豪華な、血みどろな絨氈、―――これは「バグダツトの盗賊」が飛行するメルヘンの絨氈ではない。
 いつはるところなくいへば恐しいといふ感じである
 この小説には、登場人物のすべてを、奥の奥まで描きつくしてやるぞ、といふ意地惡い気配が感じられぬ。外に向いてゐる眼の感じられる作品の限界はタカが知れてゐる。――――この作家は、凡ゆるものを自分への糺問と鍛錬の道具にしてゐるところがこわい。どんなことでも自分へと歸納して、そこでくるしんでゐる。
 少くも衣卷といふ人は恐しさうな人ではない。恐しさうな人でない故、恐しいのだ。
 この小説の中の「私」は、ドストエフスキイの「惡霊」のそれのやうに、秘密の仕事場を持たない。樂屋を開つぱなして、讀者の面前で全部の仕事をするといふことは、この作家が腹が据つてゐる證據である。と同時に餘程の自信がなければ…単に気魄だとか精力だとかいふものだけでは、かういふことをやれるものではない。
 「私はジイドの分析を尊いものに思ふが、私のノート、敢てノートと言つてみるは、贋金つくりの日記ともちがつてゐる。私はラフカデオの如く一人の口をかりて凡てを語らうともしてゐなければ、出場人物を一篇の小説の中にたたき込み、錯綜したものに作り上げたい客描寫をも試みてゐない。唯私の勉強のために、私程度の詩のモチフみたいなものと小説のモチフみたいなものとの、ごく安手の退屈なものに過ぎないのだらう。」
 これは「けしかけられた男」の中の一節であるが、作家をしてこんなにまで、さりげない謙遜な言葉を吐かせる作家の心理の組立てを、私はせつなく思ふのだ。
 一番自分をゆるし難いとする氣持は(ママ空き)
 どんな作家にも、ときとして発作のやうに襲つてくるのはわかつてゐる。つねにさういふ積極的な、妥協のない氣持を、高い調子で持續し得るといふことが容易のことでないのだ。
 何だか、ほめてばかりゐたやうで面白くないが、感服出來ぬ點だつてたくさんあることは否定出來ぬ。
 しかしとにかく、「けしかけられた男」を讀んでゐると、星と阿片の結晶とで組み立てられたコクレオの「阿片」のデツサンのやうに、無數の寶石をむごたらしく鏤めた衣卷君の、すこしばかし口を開けたポカンとした相貌が浮かんで來る。