覚書

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北川冬彦「こわれた街」衣巻省三著 『詩と詩論』s3・12・5 第二冊

 もう七、八年前にもならう。何しろまだ僕が若冠三高の生徒だつた頃の事だから。
 松花江河畔のハルピンで一週間ほどを過した或る夏の夕方のことだ。舗道に埋められた拳よりも大きな石ころに躓きながら不案内の街を歩いていると、突然、いきなりうしろから僕は抱きかかへ挙げられた。そして、白い逞ましい二本の腕は、有無を云はせず足を泳がせてゐる僕を、煙草の招牌のかけてある家へ運び込んだ。
 僕が運び込まれた家には、煙草の代りに、汚れたベツドの上に女が横たわつてゐた――
 今、僕は何故こんな話をするのか。
 他でもない。衣巻省三著はすところの詩集「こわれた街」の包装に現はれた爪磨く女が、かの女そつくりだからなのだ!

 僕はこの詩集を飽かず眺めた。敢へて直ちに頁を翻へさうとはしなかつた。何故なら、僕の脳膜に、驚きにあふれた古い記憶をよみがへらすことによつて、この詩集はすでに僕をたんのうさせてくれたのだから。

 然し! 暫く経つと、更めて僕はこの詩集に猛然と食欲を感じた。そして、次ぎ次ぎと一気に読んで行つた。不思議なことだ。読んでゆくに従つて、衣巻省三氏の詩は、風船玉の口又は香料の様に豊麗な色彩と芳香とを撒き散らしながら、片つぱしから忽ち消え失せてゆくのだ。彼の詩は一向頭に残らない。頭には一向残らないが、これほど何も残さない詩と云ふものも、また一つの魅力である。魅力たるを失はない。それは残滓を残すよりは何物をも残さない方がましだと云ふ意味ではない。何物をも残さないと云ふことが一つの魅力をなしてゐるのだ。

 実際、衣巻省三の詩は何物をも残さないが、強ひて若し何物をかを残すとすれば、それは衣巻省三と云ふ「人間」の吸引力であらう。
 衣巻省三君、近い内に会ひたいな。