覚書

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北園克衛「衣卷省三著 詩集『足風琴』」『レスプリ』ボン書店(第二冊昭和9・12・1)

 村野四郎氏は《足風琴》に就いてこんな風に書いてゐる(概して足風琴は非常に肉體の匂ひがつよく、これに、やや精神的なものが瀟洒な洋服を着せるといつたところだ)僕は村野氏とは逆で滑稽であるが(概して足風琴は非常に透明な精神が非常に肉體的な洋服を着こんで居る)と考へる。彼のエロテイシズムが強ければ強いだけ彼のエスプリピユウルは透明に純粹になつて居る。この失敬な逆説はすべて衣卷氏の詩法の責任人は彼のエロテイシズムを、肉體のやうに考へる、そして苦笑する。處がそれは肉體ではなくて派手な衣裳なのではなからうか。ゴオチエの孔雀の羽根であり、ワイルドの日向葵なのである。彼のアナクロニズムは徒に日向葵を珍重する處に根ざしてゐる。
 そうして村野氏は最後にこう斷じてゐる。(彼の詩にはたしかに自在な面白さがあるにはあるが、嚴密にいへば彼の體臭を上品に裝ふウイツトにしても、それは樂しい洒落に止まつて、すばらしい新さのスリルを僕達に感じさせることは困難である)この結論もつまりは村野氏が、彼の衣裳に迷はされて居る事を證明してゐる。然し乍ら彼のエスプリの中心はやはり殆ど稀薄な捕捉し難いまでに洗練されたエスプリピユウルにあるのであつて僕としては村野氏が衣卷氏の詩に對して幾分素人くさい判斷を下された事を惜しむと共に衣卷氏に對してはその詩法の古さ、と言つて惡いならば詩の素材が遂に詩の運命を決定する事について、深甚な警告を發し度いと考へる。ともあれ罪のすべては著者にあるのであるが、その技法の完璧とイマアヂユの強烈さは今日に於ては稀有と言ふ可きである。彼のエスプリピユウルはラヂウムのやうに不用意な讀者の頭を腐敗させる。《惡の花》よりも更に危險な此の詩集の奇蹟的な純粹はいつか明らかにされるだらう。否されないだらう